Go to channel · シェルビーコブラ購入の基礎知識|本物と呼ばれるCSXシリーズとリプロダクションカーの違いは? ..



写真の車は極めて個性の強い、趣味性の高い一品もので、海にこだわるオーナーの好みから車体は「波を蹴立てるボート」をイメージして造られた。上から俯瞰すると客室の周りはボートのようなチーク材が貼ってあり、室内の換気も船についているような換気筒でおこなう。後ろに背負ったスペアタイヤの留め具はスクリュウを模している、といった凝りようだ。金具類はすべて真鍮の磨き出しで金色にひかり輝いて豪華だ。エンジンは6気筒 SV 9237cc/110hp 最高速度113 km/hは当時としてはかなり速い。前席にはドアがなく、後ろから乗って中央通路を通って運転席に着く。
.


.
(8)<クレイン・シンプレックス>
この車が日本に紹介されたときは「クレイン・シンプレックス」だったが、1912年創立された「クレイン社」と、1907年からスポーティな車を作っていた「シンプレックス社」があり、1914年両社が合併して「クレイン・シンプレックス」となった。アメリカの自動車メーカーが網羅されている大事典によると、クレインの項では「クレイン・シンプレックス」だが、「シンプレックス」の項にも掲載されており、合併後のモデルもこちらに記載されている。しかし実質の経営権は「クレイン」側にあったようで、合併後の「モデル5」という大型モデルはヘンリー・M・/クレイン自身が設計したといわれる。
(写真16-1-e)1916 Crane-Simplex Model5 Touring by Holbrook 1971-03 ハーラーズ・コレクション/晴海)


1958年は大モデル・チェンジの年に当たり、高価で思ったように売れ行きが伸びなかった「コンチネンタル・マークⅡ」は製造中止となった。その代り「リンカーン・コンチネンタル・マークⅢ」という最上位のシリーズ名として名前だけは残った。しかしグリルが変わりインテリアを高級化しても普通のリンカーンに変わりはなかった。

の酔狂なコダワリに迫る! 今回は、歴史的マッスルカー「シェルビーコブラ」を所有する日本唯一の女性、「蛇女」さ…

.
(9)<カニンガム>(米)(1951-55)「カニンガム」はカリフィルニアの大富豪ブリッグス・カニンガム(1907-03) が私財を投じて製造した、戦後のアメリカで最初に登場した本格的なスポーツ/レーシングカーだ。1950年にはキャディラック61シリーズでルマンに挑戦、ボディをグラマン社が手掛けた改造車(余りにも奇異な外観からル・モンストルと呼ばれた)は自からドライブして11位、もう1台の殆どストックのままのキャディラックは10位となっている。もう一つの大きな功績はカリフォルニア州コスタ・メサに「ブリックス・カニンガム・オートモティブ・ミュージアム」を作り、個人コレクションを公開したことだろう。1966年から20年目の86年には閉鎖されてしまったが、ここには「カニンガム」をはじめ、ブガッティのロワイアルやT55、イスパノスイザ・キングアルフォンゾ、ドラージュV12 GPなど、後年世界のいろいろなイベントで僕が写真に収めることの出来た夢のような名車が展示されていた。まだ外国の情報が少なかったこの当時、C/G1966年10月号に掲載された写真入りの現地レポートには夢の世界を見る思いで見入った記憶がある。 「カニンガム」と名のついた車は1951年から55年に造られた「C1」から「C6」の6種しかない。最初に造られた「C1」はあまり資料がなく殆ど知られていないが、カニンガム・ミュージアムに収納されていた時代の写真が残っており、それは初期のフェラーリに似たオープン2シーターのスポーツカーで1951年のルマンでプラクティスに出走している。


初代の「コンチネンタル」は1940年から戦後の1948年まで造られ続けたが、その後しばらく空白が続いていた。ファンからは復活を望む声が多かったが、それに応えて「コンチネンタル・デヴィジョン」が新設され1955年10月発表されたのが新世代の「コンチネンタル・マークⅡ」だ。そのデザインの基本理念は「マークⅠ」(初代コンチネンタル)のプロポーションを忠実に守り、シンプルで単純の中に美しさを求めることだった。そして、それは見事に実現され、オーバー・デコレーション真っ只中のアメリカ車のなかに一服の清涼剤として清々しさを与えた。「マークⅠ」ではエンジンに不満があったが、マークⅡではリンカーンと同じV8 6035cc 285hpが搭載され、外観に相応しい実力もそなえている。最良の素材と最善の技術で丁寧に作り上げられた車のお値段は、クーペが('56) 9966ドル,('57) 9695ドル、コンバーチブル('57)10000ドルだった。同じ年のキャディラック60スペシャルの6019ドルに較べかなり高価だが、お金があったら買いた~い! 2年間で2996台造られたが全く同じものでモデルチェンジはされなかった。何処から見ても破たんのない美しさに惹かれ6枚も載せてしまった。


1941年からは「コンチネンタル」の扱いがシリーズ名から「ゼファー」と同格の車名に格上げされた。外見上は波切り型のグリルの外縁にフレームが付き、フェンダー上にサイドランプがついた。エドセルは素晴らしい外見に仕上がったこの車に上級の「Kシリーズ」に使われているV12 6781ccを積んでハイパフォーマンス・カーを目指すことを主張したが実現せず、性能的にはゼファー並みの平凡な車のままだった。コンチネンタルはこの年クーペ850台、カブリオレ400台が造られた。


1938年ヨーロッパ旅行から帰ってきたエドセル・フォードは、自身のパーソナルカー構想を指示、翌1939年2月完成したのはリンカー・ゼファーのシャシーにエドセルのアイデアを具体化した素晴らしいプロポーションを持ったカブリオレだった。この車は周りで大評判となり同じ車を造ってほしいという注文が200件を超えた。そこで1940年からゼファーの生産ラインを使って市販車が生産された。最初の年は「ゼファー・コンチネンタル」と呼ばれ、まだ「コンチネンタル」として独立していない。この年クーペ54台、カブリオレ350台が造られた。写真のタウンカーはカタログモデルではなく、建築家フランク・ロイド・ライトがカブリオレをカスタマイズしたもの。


ACコブラとシェルビーコブラはどう違うのですか?とのお尋ねがよくあります ..


.
(7)<リンカーン・コンチネンタル>(米)
「コンチネンタル」という言葉は、島国イギリスから見たヨーロッパ大陸のことだが、自動車に関しては、広いヨーロッパ大陸を高速で走るという意味で、現代の「GTカー(グランド・ツーリングカー)」と同じように考えられる。もともとは1931年頃ロールスロイス・ファンタムⅡの圧縮比を高め、大径ジェットをもったキャブレターで軽くチューニングされた大陸旅行用の車に付けられた名前で、これが後年エドセル・フォードによってデザインされたリンカーン・ゼファーのスペシャル・ボディに付けられ、ついにはシリーズ名として正式に採用されることになる。

1901年 1907年 1922年 1953年 1955年 1959年


(写真09-7a) 1956 Connaught C (2000-05 モナコ)

写真の場所はモナコ市内で、テレビのF1中継でよく映し出される最終コーナーのスタンドを出たすぐ後ろの道路だ。うしろの崖は堅い岩でできているが、実はモナコは全部が岩の上に乗っているらしく、岬の向うへ続くトンネルも堅い岩盤を素掘りしただけのものだったし、ホテルの窓から見える裏山も岩山だった。
.

ACコブラのベース車であるACエースは、1953年に発売されたブリストル カーズ製の直列6気筒エンジンを搭載したスポーツカーでした。

(写真10-0)1936 Lincoln Zephyr V12 4de Sedan(2004-01 ブリジストン・ショールーム/国分寺)


「リンカーン」は1930年代「パッカード」「キャディラック」などと並び大型高級車の代表的存在だったが、不況の中各社が格下げ車種で売り上げを確保する中で1936年「リンカーン・ゼファー」を発表した。この車はリンカーンの販売ルートで売られたが、実質はリンカーンの普及版というよりは、フォードのデラックス版プラスαといった存在だった。4384cc V12気筒エンジンといってもフォードのV8をV12に増やした程度の平凡なもので、価格も大型「Kシリーズ」の4~5000ドルに対し1275~1320ドルと段違いに安く、日本では大型リンカーンの顧客に配慮して「リンカーン」とは区別して「リンコン・ゼファー」と呼んだ、と何かで読んだ記憶がある。「コンチネンタル」のベースとなったといわれるのが「リンカーン・ゼファー」だ。写真の車は戦前からブリジストンの石橋幹一郎氏が使用していたもので、レストアに際しては当時のタイヤが手に入らず、アメリカのファイアストーンでオリジナルタイヤのパターンを型から起こして造らせたと伺った。参考に発売当時の日本国内用カタログの一部を掲載した。

また、ACコブラは、フォードのV8エンジンを搭載していますが、シェルビーコブラは、シェルビー・アメリカンの自社製エンジンを搭載しています。


BタイプのF1バージョンが「4シリーズ」で、この車がイギリスで注目されるのは
トニー・ブルックスという歯科医を目指す若い新人ドライバーがマセラティを抑えて堂々優勝してしまったからだ。この年のグランプリ・タイトル戦に「コンノート」は第6戦「イギリスGP」に2台出走したが完走できなかった。最終第7戦が9月11日で終わり、そのあと10月23日シチリア島で開かれた「シラクーザGP」はノンタイトルではあったが、突然優勝が転がり込み、ここ数年啼かず飛ばずのイギリス・レーシング界にとっては、大相撲で日本人が優勝したような久々の大快挙だったに違いない。それを記念してこの車は「ザ・シラクーザ」と呼ばれる。

美しい景色の中で2台のコブラを見比べた!なんとボディラインは似て非なるものでした。単体では分からなかった違いがハッキリしました。

.
(6)
「コンノート」という名前は日本では殆ど知る人がない。もし知っているとすれば1950年代の「F1」に興味のある人か、ミニチュアカーのコレクターくらいだろう。第2次大戦後1940年代の英国は緊縮財政を敷いていたから物資が欠乏し、車を売りたくても売る車がないような状態だった。コンノートはF1活動を始める前の1948年、「リー・フランシス」をベースにしたスポーツカー「L2」を6台作っている。F1(F2)には1952年から59年まで活動し最高位は1956年イタリアGPの3位止まりだが、小規模コンストラクターとしてマセラティーなどの大メーカーと互角?に戦ったから、イギリスでは人気が高かった。(ノンタイトルではGPで1度だけ優勝している)

ACカーズ。1960年代に登場した「シェルビー・ACコブラ」が有名ですが、そのコブラ ..


「C5R」に発展したカニンガムは「ソリッド・カニンガム」の別名を持つ。それはルマンのコースのように平坦でタイトコーナーが無いサーキットではロードホールディングが最重要ではないと判断し、大型ブレーキ・ドラムを最優先するためフロントをトーションバーで吊るリッジド・アクスルにした為で、これがアメリカ式では「ソリッド・アクスル」と呼ばれる。1953年のルマンには「C5R」ロードスターとクーペが各1台、「C4R」1台出走し「CR4」が3位入賞、「CR5」は7位、10位と全車完走と大健闘した。因みに「ミュルサンヌ」のストレートでの「C5R」の速さは249km/hで、アルファロメオ3.5、ジャガーCタイプ、フェラーリ4.1など他の参加車より断然早かった。

シェルビー コブラ 427 (Shelby COBRA 427)


アメリカ車の通例として毎年モデルチェンジが行われ、この年からフルサイズ・モデルとは全く関係ない独自のグリル・デザインが与えられた。場所は虎の門の交差点近くにあったフォード系ディーラー「ニューエンパイア・モータース」の前で、リンカーン、マーキュリー、フォードの看板が見えるが、ここでは最新モデルが見られるので土曜日の午後仕事が終わってからよく足を運んだ場所だ。(僕が現役だったころは週休2日制になる前で、土曜日は半日仕事をしていた。)
.

Superformance MK3 (ACコブラのリプロダクションカー)


1960年誕生したてのマーキュリー版コンパクトカー「コメット」で、エンジンの6気筒 2364cc は、フルサイズのマーキュリー・モンテレー5110cc、モントクレア7043ccに較べれば、半分以下、1/3以下なのでアメリカとしてはずいぶん小さいと感じる排気量だ。ホイールベースの114インチは約3010ミリで、初代トヨペットクラウンの2530ミリに較べればかなり大きい。生まれたての「コメット」のグリルはフルサイズの凹型曲面モチーフから転用したものだ。場所は虎の門病院の前で、隣がアメリカ大使館なので最新のアメリカ車を見つけるには絶好の場所だった。

シェルビー コブラ ミニカー まとめ Miniaturecar Museum favorite

.
(3)<コメット> (米・マーキュリー)1960~
1903年に創立されたフォード・モーター社のラインアップは1960年時点では上から「リンカーン」「マーキュリー」「フォード」となっていた。創立者のヘンリー・フォードは頑固に実用一点張りでT型を造り続けて来たが、1922年息子のエドセルの意見を入れて高級車「リンカーン」を買収し、高級車と大衆車の2本立てとなった。しかし1930年代になるとライバルのGMは「ビュイック」「オールズモビル」「ポンティアック」、クライスラーは「デソート」「ダッジ」、その他独立系でも「ナッシュ」、「ハドソン」、「スチュードベーカー」など、中級車クラスが市場を占める割合が大きくなった。出遅れたフォードには追いつくために適当な買収先が見つからなかったのか、1938年新しく創設されたのが「マーキュリー」で、戦後の1949 年専用のボディが提供されるまではフォードと同じスタイルに一回り大きいエンジンを積んだものだった。しかし1950年代に入ると大型高級化が進み、大衆車フォードの兄貴分だったマーキュリーはいつの間にか高級車リンカーンの弟分と化した。1960年前後になると大きくなりすぎたことへの反省から各社から1930年代に近いサイズに小型化された、いわゆる「コンパクトカー」が発売され、フォードは1959年から「ファルコン」が投入され、翌1960年からマーキュリー」には「コメット」が誕生した。